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派遣研究者REPORT

「ガラス転移現象」のメカニズムとは?
80年間、誰も解明できなかった
物性の難問に向かい合う。
真理の探究を通じた、
新しい統計物理学の構築を目指して。

ボストン大学(アメリカ合衆国 ボストン)
2010年8月31日~2011年2月4日(158日間)

別名“アメリカのアテネ”。
著名大学が集まる学都で、知のダイナミズムに触れる。

寺田先生が取り組むのは「ガラス転移現象のメカニズムの解明」。ここでの“ ガラス”とは私たちの暮らしに身近なガラス(ケイ酸塩を主成分とする堅く透明な物質)だけではなく、「ガラス転移現象」を示す非晶質固体のことをいいます。…ちょっと難しいですね。寺田先生に助け船を出してもらいましょう。
 「通常、気体から徐々に温度を下げていくと、ある温度で突然液体状態になり、さらに温度を下げていくと今度はある温度で突然結晶と呼ばれる固体状態になります。この気体から液体、液体から結晶へと状態が変化することを<相転移>といいます。物質を構成している原子分子を学生の皆さんに例えてみましょう。気体状態は休日に皆さんが気ままに過ごしている状態、液体状態は平日学校の休み時間で、座席から離れて教室や学校内で遊んでいる状態、そして結晶状態は授業が始まって規則正しく座席に座り作業したり動いている状態です。これは、温度を下げることによって、原子分子といった粒子同士の相互作用エネルギー(皆さんを拘束する力)に比べて、原子分子の運動エネルギー(皆さんが運動しようとする力)が相対的に小さくなり、徐々にランダムな運動ができにくくなり、粒子同士が規則正しく並び出すために起きる現象です。
 ところが、液体状態から急に温度を下げると、液体状態の原子分子が規則正しい状態に配列する前に動きにくくなってしまい、液体状態から結晶状態への突然の変化とは異なり、ランダムな配置のままでゆっくりとしか動けない状態へとスムーズに変化していく<ガラス転移>という現象が起きます。これは液体状態から結晶状態への相転移とは異なるものです。その境目の温度をガラス転移点(Tg)といいます。
 窓ガラスは、ガラス転移を生じる物質のよく知られた例です。このガラスは、実用上は非晶質(原子分子がランダムな配置にある状態の)固体として扱われていますが、ガラスを構成する原子分子は、実は非常にゆっくりと動いていて、例えば、窓ガラスなどは数千年かけて、より安定な結晶状態へと変化します。さらに、不思議なことにガラス転移を起こす温度付近では、少しの温度変化で粒子の運動のスピードが急に変化し、その物質の粘性も急激に変化します。そうした性質を利用したのがガラス細工で、バーナー等で少し熱すると、形を自由自在に変化させることができるようになります。その後、急冷させると変化させた形がそのまま固定化されます。
 このようなガラス転移を生じさせる急冷のスピードは、ある種の物質では一秒間に数千度以上も必要で、技術的にも非常に難しかったのですが、最近ではいろいろな物質で様々な工夫することにより結晶化を避けて、このガラス転移現象が観測できるようになり、ガラスを筆頭に合成樹脂やプラスチックなどの高分子系、タンパク質などの生体分子系、液晶系、コロイド分散系や合金などでガラス状態を作れるようになりました。これらの新しく作られたガラスは、結晶とは異なる性質を持つ固体(=新素材)としても注目されています。例えばマイクロメータサイズの小さなギアは、柔らかい素材の高分子プラスチックに代わり、硬い合金ガラスで作れるようになりました。これにより精度を担保しつつ、耐久性を数百倍も高めることができます。また、ゴルフクラブのヘッドを金属ガラスにすることにより飛距離を格段に伸ばせることがわかり、実用化がなされています」。
 実は、熱⼒学的な観測によって初めてガラス転移現象が⾒出されたのは80年以上も前。しかし、そのメカニズムはいまだにナゾのままであり、最も難しい物性の問題のひとつといわれています。

寺田先生の研究グループでは、液体状態から過冷却液体状態におけるダイナミクス(非常にゆっくりとした緩和過程)に注目することで、様々な系で起こるガラス転移現象を統一的に理解することを目指しています。温度変化などによって物質の状態がどのように変化するのかを研究する計算機実験の手法に「レプリカ交換法」があります。「シミュレーションを行う対象(系)のコピー(レプリカ)を複数用意することで、多くのサンプリングを可能にするレプリカ交換法は、とても優れたアルゴリズムですが、相転移点の近くなどの大きなエネルギーギャップが存在する状態においては、適用できないという課題がありました。ボストン大学のTom Keyes教授の研究室では、こうした問題点を改善した一般化レプリカ交換法を編み出し、多くの成果を挙げています。今回の研究滞在では、Keyes教授のグループが開発した手法を用いて、希ガスモデルによる気体-液体-結晶の一次次相転移を計算機実験で実現し、相転移点を明らかにすると共に、一般化レプリカ交換法がガラス転移現象に適用できるかどうかの可能性を探ることとしました」。

多くの総合・単科大学を擁するボストンは、世界有数の学都として知られています。寺田先生は、前述の研究課題と奮闘する一方、学内外で開催されるセミナーやコロキウム、研究会に足繁く通い、見聞と知見を広げました。「ボストン大学化学科・物理学科が合同で毎週開催するWater Seminarでは、水の研究に関する最新の情報を、またボストンエリアの大学が集うStatistical Physics関連の研究会では、他の研究者たちが興味を寄せている分野やテーマについて探ることができました。さらにはアメリカ東海岸近郊で行われる国際会議などにも出席して、機会があればこれまでの研究成果を発表してきました」。こうした様々な研究活動のダイナミズムに触れることで、新しい着想・アイデアを生み出す視座を獲得できたように思います、と語る寺田先生。多くの研究者と面識を得、その人的ネットワークを構築することができたことも大きな収穫。海外派遣で見出した知見は、すでにいくつかの国際会議等で発表されていますが、それだけではない成果=稔りを寺田先生にもたらしてくれたようです。

(写真/図1)ボストン大学は1839年設立(1869年Boston Universityに改名)の私立大学。学生数約30,000人、全米で4番目の規模を誇る。古くから性別・人種・宗教に関係なく、教員と学生を迎え入れてきた。現在も留学生の受け入れに積極的である。写真は同大のキャンパス入り口。

(写真/図2)Tom Keyes教授(真ん中)、博士研究員のDr. Revati Kumar(右)と。寺田先生がかぶっているのがアメリカン・リーグ屈指の名門チーム、ボストン・レッドソックスのキャップ。「地元のチームですからぜひ応援してください」とKeyes教授からのプレゼント。ちなみに同チームは、全米一熱狂的なファンが多いことで知られている。